更新日:2017年10月13日

Japan Vision Vol.81|地域の未来を支える人 北海道沙流郡平取町
アイヌ文化伝承者 二風谷木彫り職人
高野 繁廣さん

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今日は、前回ご登場いただいた二風谷アットゥシ織り職人の貝澤雪子さんと同様、アイヌ文化伝承者として40年以上にわたり、二風谷イタ(盆)・ニマ (器)・マキリ(小刀)などの制作に精魂を傾ける木彫り職人の高野 繁廣(たかの しげひろ)さんのメッセージをご紹介します。

東京都出身の高野さんは22歳の時、北海道をヒッチハイクで旅し、たまたまここ二風谷の地を訪れました。「訪れた」と言うよりも、この地で“お金が底をついてしまった”のだとか。途方に暮れた高野さんが通り掛かりの人に、「軒下を寝床にお借りしたい。」と声を掛けたところ、「そんなところで寝ていたら熊に食われてしまうから、家の中へ入りなさい!」と、寝床を提供してくれただけでなく、なんと1週間ほど飯炊きのアルバイトをやらせてくれたのだそうです。
もともと自然豊かな環境での暮らしを望んでいた高野さんは、自然と共に生きるアイヌの人たちの生活様式、またアイヌの伝統工芸、美しい木彫りの数々にすっかり心を惹かれ、ほどなくして二風谷への移住を決意しました。このとき高野さんに、寝床とアルバイトを提供してくれた方こそ、貝澤雪子さんの夫・北海道随一のアイヌ木彫り職人で、高野さんの師匠となった貝澤 守幸(かいざわ もりゆき)さんだったのです。以来高野さんは、40年以上、アイヌの伝統工芸・伝統文様にこだわった作品作りをしながら、その魅力を全国に伝えています。
まるで日本昔話のような希有な匠のエピソードを、皆さまもぜひご一読ください。

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「お前、嫁を世話してやるからここに住め!」

二風谷の地を初めて訪れたのは22歳の時。今から45年も前になります。
もともとは東京で、実家の電気屋を手伝っていましたが、屋根にテレビのアンテナをつける仕事をしていた時、光化学スモッグにやられて意識を失ってしまい、危うく屋根から落ちそうになったことがありました。そのことがきっかけで自然豊かな環境での暮らしに対する想いが強くなったこと、また高校時代に友人が北海道を自転車で旅した時のエピソードが強く印象に残っていたことが重なり、北海道を実際に体感してみようとヒッチハイクで旅することにしました。

とくにあてもなく、二風谷の地を目指していた訳でもなかったのですが、たまたまこの辺りを通りかかったときに、財布の中のお金が底をついてしまいました。「これはまずい!」と、地元の方に「軒下を寝床に貸してほしい」とお願いしたところ、「そんなところで寝ていたらクマに食われてしまうから、家の中に入りなさい」と言ってくれて、そのうえ私にお金がない事情を察してくれたのか、1週間ほど飯炊きのアルバイトまでさせてくれたのです。その方の名前は、貝澤 守幸(かいざわ もりゆき)さん。当時、30代にして既に北海道随一と言われたアイヌ木彫りの職人で、後に私の師匠となった方でした。そんな“馴れ初め”で、貝澤さんのご家族と1週間暮らすことになった訳ですが、その暮らしの中で貝澤さんのお母さんが僕にこう言いました。「お前、嫁を世話してやるからここに住め!」と。

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「彼女をここに連れてきて、いっしょに住みたいです!」

二風谷の方は、まったくもってブレがないと言いますか、何でも“言い切る”と言いますか、こういう言い方をするのです。例えば、「寒いから温かいお茶を飲んでいきなさい!」「少し休んでお菓子を食べていきなさい!」と、言葉は優しいのに、どこか力強く、「いいえ!」と言えない迫力があるのです。その時すでに自然と共に生きるアイヌの文化と、守幸さんの作品をはじめ美しいアイヌ工芸品の数々に心を惹かれていたため、私にとってはとても嬉しい言葉でした。しかしその当時、私には4年間付き合っていた彼女が東京にいたため、私が出した答えはこうでした。
「彼女をここに連れてきて、いっしょに住みたいです!」
すると、
「そういうことなら、ぜひ連れて来なさい!」
と、温かく迎え入れてくれ、全力で彼女を説得し、ほどなくして木彫り職人としての修業をしながら二風谷で暮らすことになったのです。

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彫る技術など具体的なところを教えてくれることはほとんどありませんでした。

守幸師匠の師事で、アイヌ木彫り職人としての修業を始め、基本的な技を覚えて理解し、ある程度のカタチが作れるようになるまで3年ほど掛かりました。昔の職人さながらに「体で覚えろ!」「見て盗め!」と言った教え方で、彫る技術など具体的なところを教えてくれることはほとんどありません。師匠が朝、工房に来て、まっさらな板にササっと画を描いていく。それを職人たちが半日~1日かけて彫って仕上げていく。私はそれに色を付けたり、仕上げを手伝ったり、慣れてきたら徐々に「彫り」をやらせてもらったり、とにかく「下済み」を徹底的にやりました。もともと師匠には「5年間しっかり勤めなさい!」と言われていたので、辛いと思ったことはありませんでしたが、経験を積んでそろそろ5年!というタイミングで、なんと師匠が心筋梗塞で亡くなってしまったのです。享年43歳。早すぎる死でした。
師匠のもとで約3年間、みっちりと木彫りの修業をし、その後の2年間を師匠の妻で「アットゥシ織り」職人である、雪子さんに奉公し、1979年の秋に独立させてもらいました。翌1980年に「高野民芸」として、二風谷のこの地にお店を出し、現在まで40年近く、師匠から教わったことを大切に夫婦でアイヌの工芸品を作り続けています。

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大切にしている考えは、アイヌの伝統を外さないこと。
そのうえで、お客さまに喜んでいただくこと。

アイヌ人が木で作る伝統的な道具は、生活に必要なものだけでも約400点に上ります。アイヌ人はそのすべてを、それぞれの家族が“手で”作っていました。また、昔からアイヌ人の夫婦は、男は木彫り、女は織り物といったようにそれぞれの役割分担と、共同で行う作業の両方がありました。そのため、夫婦のどちらかが会社員だったり、専業主婦だったりすると、完全なモノができません。これまで夫婦で協力して、アイヌ文化のさまざまなことを再現し、またお客さまの要望にも応えることができている自負がありますので、これからもこの形をずっと継続して行きたいと思います。

私たち夫婦は、アイヌ文化の象徴である「チセ(家)」や、アイヌ人が奏でる伝統的な楽器「トンコリ」を含めて、その約半数を再現することができるようになりましたが、逆の見方をすると40年も掛けてようやく半分です。
アイヌの伝統工芸を作る人のスタイルはさまざまですが、アイヌ文化の伝承者を名乗る以上、新しいものを生み出すことより、永い歴史を持つアイヌ文化に忠実に、彼らが使ってきたモノを再現し、多くの方に知ってもらうことが重要と考えています。

もっと言うと、昔ながらのアイヌの文化・伝統・様式を
敢えてお客さまに押し付けて、喜んでいただく。
それが私たちのこだわりです。

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