更新日:2016年11月14日
Japan Vision Vol.38|地域の未来を支える人
京都府京都市
日本工芸会正会員 日本刺繍アトリエ森繍 代表
森 康次さん
古都、京都に発し、元禄の時代から300年以上の歴史を持つ、優美な友禅染の着物。街に佇む美しい着物姿は、いつの時代も人々の心を惹きつけます。着物の文様表現には、染と織、そして“刺繍”があり、それらの技術が白生地を彩ることで、着物に美しさと付加価値を与えているのです。今回ご紹介するのは、京都市上賀茂で、55年にわたり日本刺繍一筋に歩まれている匠、日本刺繍アトリエ 森繍代表の、森 康次(もり やすつぐ)さんです。刺繍の基本は、「糸の並べ方」と「重ね方」。膨大な手間と根気が必要な仕事である分、文様表現に制約がなく、好きな場所に思い描いた通りの表現ができることが魅力であると、森さんは言います。1本1本の糸から、世に2つとない優美な絵を繍い(ぬい)上げ、数多くの着物に付加価値を与えてきた匠のメッセージを、ぜひご一読ください。
常に生活の一部であった刺繍を純粋に続けてきた。
私が育った街には、友禅染の加工先が軒を連ね、近所の遊び仲間や同級生には、着物関係の仕事をしている家が多く、白生地を持って町内を1周すれば、友禅の着物も、絞りの着物も出来上がってしまうような環境でした。実家は「森ぬい」という屋号で、“繍い屋”を営んでおり、両親も、6歳上の姉も繍いの仕事をしていましたし、通いの職人さんも居ましたから、家の中はもう完全に工房です。幼少期を、母親の刺繍台の前で刺繍をする手元を見ながら育った私にとって、刺繍は常に生活の一部でした。私が家業に従事したのは15歳(1961年)の時です。時折、この道を志したきっかけのような質問をいただきますが、その時代、長男が親の跡を継ぐことは当たり前の時代だったため、日本刺繍の道を志すきっかけや決意をした記憶はなく、常に生活の一部であった刺繍を純粋に続けてきた、というのが実情です。
当時の着物業界は、経済成長の影響もあり活況でした。毎晩遅くまで仕事をしても追いつかないほど仕事に恵まれた状況で、刺繍の技術・技法もたくさん学ぶことができました。そんな修行時代にやらせていただいた仕事の大半は、「あしらい刺繍」というもので、友禅染の着物に付加価値を付けるための化粧・加飾の仕事です。若気の至りと言いますか、桃山時代の刺繍だけで表現した小袖などと比べると、あしらい刺繍はどうしても「従」の仕事、「友禅染の引き立て役」と思えてしまい、「日本刺繍は本来、文様表現として主役を張れる技法なのではないか?」と、考えるようになりました。そうなると刺繍の技術だけでは足りず、自ら絵を描けるようにならなければいけない。そこで父親に頼み、「図案屋」さんを紹介してもらい、その先生の教えで写生をするようになり、次には日展画家の先生にも師事するようになりました。こうして、花や風景を見れば、手当たり次第に写生する日々が始まります。1日1枚を目標に、着物を彩る文様をイメージして、刺繍の下絵を何枚でも描いていきます。自ら刺繍のデザインをして、それが着物になると今度は、より多くの人に見てほしくなり、また評価を得たくもなり、公募展への出展も行うようになりました。あしらい刺繍などの仕事をこなすかたわら、自分の作品をつくる生活が始まり、それは今でも続いています。その経験は作家として、自立するために必要な自己研鑽(じこけんさん)だったと思います。
この紙の面積の中に、必ず良いデザイン・構図が潜んでいる。
日本刺繍の技法はいくつもある中で、基本的なことは「糸の並べ方」と「糸の重ね方」です。その技術だけ習得することを考えれば、それほど難しいものではありません。重要なのは、着物に合った刺繍のデザイン=「色と形」と「構図」を考えることです。デザインは上向き・下向きや右向き・左向き、花であれば開いたところ、蕾の状態など、着物になった姿を頭の中でイメージします。そして、さらに重要な構図では、そもそもどのような場面を描くのか、季節はいつか、朝・夕どちらか、主役と脇役がどう存在するのか、そんなシーンを思い描き、着物というキャンバスに反映していきます。紙の上で明確に決まるまで、かなりの時間を費やします。
これは“発想”する作業ですから、なかなか思うようにはいかず、また時間を掛けたからといって、必ずしも良いものができるという事でもありません。ただ、「この紙の面積の中に、必ず良いデザイン・構図が潜んでいる」と、信じることが大切です。後はとにかく諦めず、妥協をせず、納得がいくまで何度でも描き続ける。言い方を変えれば、宝探しのような仕事です。そうして、「着色した完成予想図」が出来上がると、下絵を作ります。生地に転写をして、いよいよ刺繍に入るわけですが、実際に着物にどう映えるのかは、大きな作品になると1週間ほど繍い進めないとわからないため、この時間が最もわくわくして楽しく、また緊張する瞬間です。想定通りの仕上がりが見えた時は、この上ない喜びを味わうことができます。その後は刺繍台の前に座り、完成までひたすら作業を続けます。他にも糸の「生地選び」と「糸の染め」、摩擦に弱い繊細な糸の扱い方など、職人として覚えなければならないことはたくさんありますが、日本刺繍の「作家」としてはデザインと構図、何よりも発想が最も重要です。
私たち自身が着物を取り入れた生活をし、街に出ることが大切です。
私が考える日本刺繍の魅力は、このように文様表現に制約がなく、好きなところに好きなだけ表現ができること。また、糸を重ねるため立体的で、存在感があることです。作業は極めて原始的で、膨大な手間と根気が必要ですが、自分の思い描いた世界観を優美な衣装として、またこの世に1つしかない絵として表現ができるのは、刺繍ならではの魅力ではないでしょうか。それは着る方にとっての価値にもつながっていると思います。
刺繍の技術は変わらずとも、常に必要とされるものをつくること。そのためには、昨日の自分を否定し、平成の時代らしさを育みながら、新しいものをつくり続ける姿勢が大切だと思います。1970年代をピークに、着物の需要は下降の一途をたどってしまっている状況ですが、「着物」をもっと生活の中に取り入れることが出来る取り組みを、私たちが行う必要があります。作家として作品を生み出すこと、また私たち自身が着物を取り入れた生活をし、街に出ることが大切です。
いつか引退した後のことを考え始めました。
日本刺繍の技術の継承という面では、後継者を育てることが必要です。私が60歳になり引退した後のことについて、10年前から考え始めました。それまでの45年間で経験したこと、習得した技術と知識、また、親の代から受け継いだ数々の道具や材料、資料などは、私が死んでしまえば、すべてが灰になってしまいます。「それはさすがにもったいない、それを本当に必要としている人にすべて受け継いでいただけないか」と、思い立ち、「後継者の公募」を始めたのです。ただし見習いの間しばらくは「無給」です。自分で勉強に来られる時間を1週間に3日ほどは作って、真剣に取り組んでほしいという、とても厳しい条件でした。
それでも、興味を持ってくれた人が何人か集まりました。その中の1人が、その後私が後継者に指名した「佐藤 未知」です。甲府の出身で、大学卒業後、東京で弁護士の秘書をしていた佐藤が、休みの日に京都に宿をとり、勉強に来ました。その年の暮れの日には、なんと京都に引っ越し、本格的に刺繍の勉強をしたい!と言ってくれたのです。最初の2~3年は、別の仕事をしながら、技術を習得する毎日でしたが、その後、日本刺繍の仕事1本にしぼり現在に至ります。
- 佐藤 未知(さとう みち)さんのメッセージ -
私が日本刺繍に興味を持ったのは、東京で開催された刺繍の作品展で、感銘を受けたことです。そのことがきっかけで、独学で刺繍の勉強を始めました。森先生との出会いは、たまたま母親の友人の着ていた着物に、先生の刺繍があったこと。先生の作品に興味を持ち、自分の作品の参考にと、先生のサイトを見るようになりました。そんなある日、先生のサイトに「後継者の公募」のお知らせを見つけたことで、運命的なものを感じ、ほどなく決意しました。
この10年間、森先生の下で勉強させてもらって、刺繍の技法という部分では、ある程度の自信がついてきましたが、デザイン・構図・発想といった部分では、まだまだだと思います。これから様々な花の形や色、風景の美しさを正確に捉え、表現する勉強をして、人に感銘を与える作品をつくっていきたいと思います。
伝統工芸の世界に限らず、これからの時代を生き抜くためには、常に変化を受け入れる柔軟さが必要だと思います。そして自らも変化をしていくことです。卵は人に割られたら、卵焼きにしかなりませんが、自分で殻を割ると、そこに新しい命が生まれます。自分の殻をだれかが割ってくれるのを待つのではなく、自ら殻を割って、新しい世界を見つけてください。
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